ヘヴンリィ・ヘヴンリィ・ヘヴンリィ

 かわまこさんが事故ったらしいので心配で夜眠れません昼寝てるんですけどね。
 あれですね。
 ドゥルーズですね。
 最近ぼくもドゥルーズになりたい!って願望が久しぶりに鎌首をもたげてきたのでとりあえず前期の仕事の総決算として自分の好きなものをダシに世界語りしたいですね。僕の中では中村一義(金字塔)、田中ロミオクロスチャンネル)、宮藤官九郎木更津キャッツアイ)、井上敏樹仮面ライダー555)が四大神なのですが、他にも好きな人が多すぎて困っていますね( ・´ー・`) 
 まあなんか色々と勉強したいと思ったわけですよ。
 そんなわけで川上未映子の『ヘヴン』の話です。

ヘヴン

ヘヴン

 どんな話か忘れました( ・´ー・`)
 ちょっと読み直しますね。
 読みました。
 いじめられている中学生の僕が同じくいじめられているコジマといちゃいちゃするうちに、なにもかもが美しくなる話ですね。
 とてもいい話でした。感動しました。
 コジマとの手紙のやりとりとか青春な感じがしてよかったです。そんな感じで斜視の僕がコジマに「きみの目が好き」って言われたり医者に「一万円で斜視直せるよ」って言われたりいじめっこに「お前がいじめられてんの、目のせいと思ってるかもしれねーけどそんなことねーからwwなんか環境がアレだからwww」って言われたりなにもかもが美しくなったりして、よかったです。感動しました。
 
「つまり」とコジマは言った。
「僕たちは」と言いかけると、コジマがそれをさえぎった。
「わたしたちは、いまでもじゅうぶん物みたいなものなのだった」と言って、下唇をかるく噛んで笑った。
「本当の物にはなれなくても、いまだってじゅうぶん物みたいなものなのだもの」
 そういうとコジマは髪のなかに右手を入れてゆっくりとかきまわし、じっと黙っていた。そして手さげの猫の顔を見つめていた。僕もおなじところをじっと見ていた。
「みんな、物だもの」と、僕はなんとなく言ってみた。
「そうだもの」とコジマが言った。
「仕方ないもの」と僕が言うと、コジマが声を小さくだして笑って、それにつられて僕も笑った。
 電車はゆるいカーブをゆき、それにあわせて窓の外の家並みが斜めになったり遠くなったりを繰りかえした。
「問題は」としばらくしてから、コジマは大きく息をついた。
「物は物でも、たとえば、壁にかかってる時計みたいには誰も放っておいてくれないこと」とコジマは言って、それから窓の外に目をやりながら「だもの」とつけくわえて、僕の顔を見て笑った。



 悪意は創発する。人がたくさんいる場所では必ず。その被害を受けるものは悲惨だ。そこに加害者はいないから。てっとり早く安心する方法は犯人をでっちあげることだ。価値の宙吊りに耐えることができる人は少ない。視野の狭い中学生はなおさらそうだ。物語は処方箋として機能する。だけどそれはオルタナティブだ。代替可能なものだ。もっといえば物事に原因なんてない。原因と結果を結ぶラインはほんとうはつながっていない。きみを殺したくはない。だから殺す。きみをいじめたくない。だからいじめる。なんだって理由になれる。なんだって結果になれる。そもそも言葉はすべて受け取る側の恣意的な解釈の上で成り立っている。矛盾という言葉はそれ事態が語義矛盾である、というループを孕んでいる。だから、不幸であるからといって幸福になれない道理はない。不幸なままで幸福なやつに勝てない理由がない。『めだかボックス』の球磨川禊は不幸な状態で笑うのがマイナスだと言う。『ヘヴン』における「僕」と「コジマ」がマイナスの人間であることはこのシーンに象徴されている。

 ちょっと待て……。
 なんの話だ……。

 まあ、「僕」と「コジマ」はよく笑うんですね。そんで文体も淡々としたもので、いじめられっこの一人称だけど彼岸の災害をぼーっと眺めてるような書かれ方がよかったですよね。コジマと会っているときもいじめられてるときもそうだったのがよかったですよね。

 そろそろ飽きました……( ・´ー・`)

 そんな感じでしょうかね( ・´ー・`)