ambigousな日本のわたし(大江健三郎/『あいまいな日本のわたし』)

あいまいな日本の私 (岩波新書)

あいまいな日本の私 (岩波新書)


 私は無信仰の者なんです。カトリックを信じない。プロテスタントも信じませんし、仏教も信じない。神道も信じてない。信じることができない。だけども祈っていた。祈ったというよりも、集中したという方が正しいかもしれませんけど。目の前に一本の木がありましてね。まだ若いダケカンバの木なんですけど、その木を見ていました。いま自分がこの木を見て集中している、他のことを考えないでコンセントレートしている。このいまの一刻が、自分の人生でいちばん大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。そしてもう一度くいなが鳴きましてね、息子が「クイナ、です」といったんです。

 私は山小屋に戻ってきて、家内に、息子のことをプーちゃんと言うんですけど、「プーちゃんがいま、「クイナ、です」といったよ」と報告した。家内はそれを始め信じてなかったようですけれども、受け入れてはくれましてね、翌朝までふたりで待ったんです。
 朝になると周りの林で小鳥が鳴く。シジュウカラとかコゲラとかホトトギスとかが次々鳴いたものですからね、子供はいちいちその鳥の名前を言った。私たちは子供が人間の声でコミュニケーションすることを発見して、それから子供とのいろんな遊びを作って彼に言葉を話させるようにしたわけなんです。そしてかれはやがて人間の声を聞くようになったし、人間の作る音楽にも関心をもつようになりました。今は自分で音楽を書くようになっています。そのすべての最初は、あの「クイナ、です」とかれがいった瞬間だった。
《どうせ叶わぬことと分っていても、重松は向うの山に目を移してそう占った。》
 「占った」というのは井伏さんらしい照れた言い方で、心のなかでそう願った、ということです。その内容は、
《今、もし椋尾の山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹ではんくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」》
 この文章を私はよく理解できると思っています。私自身、クイナの時にそう占ったから。そして、人間はこのように祈るものだと私は思うから。信仰を持ってなくても、宗教がなくても。
 そういう占い、祈りには意味がない、ということもできます。そういう無意味なことはしないという人ももちろんいていい。しかし、自分はそういう事をする人間だと私は思っています。井伏さんもそのような人だと思う。そして私は井伏鱒二の文学を尊敬するわけなんです。


 いい話だなあ。