すべてのレイヤーと電流鉄骨渡りの話

 生きているといろんなことに出会います。のらりくらりと生産性のない日々をこなしているだけでも経験は体積していきます。物語を鑑賞する上で自分の経験/体験が下地になることはよく言われていることです。小説や漫画やドラマや映画、なんでもいいのですが、物語のさまざまな細部が自分の経験にアクセスして、特別な意味を持ってくることがあります。本筋とは関係のない部分が気になってくることがあります。
 純度百パーセントで物語を享受することはできません。純粋な体験はありません。一人一人別の物語があります。一人ひとりが、別々の人生の文脈を持っているからです。そんなことはわかりきってる前提なんだ。今回ここで書かれるのは、じゃあ自分が読みこんだ固有の物語は、その正統性をどのように担保すればいいのかっていう話です。ウソです。
 物語の読みかたには誠実のグラデーションがあるとぼくは思っています。作者の文脈に準拠した楽しみ方をするほど、誠実度があがります。はんたいに作者が書いてること/書きたいこと/書きたかったことを無視して、自分/読者の文脈に沿って物語を享受するほど、非誠実であるといえるでしょう。問題なのは、誠実な読み方と楽しさが正比例するわけではないということです。作者に対する背信行為のような読み方をしたほうが楽しめる物語もあります。本来楽しめなかった物語でも、ある種のハッキングのような特別な読み方で読むことによって楽しめるといった事態も発生します。京極夏彦は妹ミステリ作家です(京極夏彦がつまらないわけじゃないよ。ちょうおもしろいよ)。もうわかんないですね。

 むずかしいですね(飽きたので短いまとめ)
 
 ……このようなことを考えてしまうのはぼくがそこそこ推理小説を読んでいるせいかもしれません(またはじまった)。作者VS読者の構図をよく採用している本格ミステリをいっぱい読むとどうしてもメタ的な視点が立ち上がってきます。些細な描写にも伏線が仕掛けられてないかと疑ってしまいます。そのような、メタ的な読み方に耐えうるのは、物語性の強い、ベタなお話なのではないかと最近思うようになったのですがそれはまた別の話ですね。些細な描写が伏線ではないかどうかどうやって判断するかというと、記憶のデータベースと照らし合わせるわけです。似たようなシチュエーション/類似したガジェット/いままでの騙された経験……ミステリなんて大まかなパターンは決まっているのだから、ある程度経験を積めば頭の中で青チャート的なものができあがるわけです。そのような、細部と記憶をリンクさせる技術を、ミステリを読むことで磨いていたのではないかと思うのです。そうかなあ? なんかよくわかんなくなってきたな。まあいいや。

 でもそんなメタ視によってつまらなくなってしまうものもあるわけです。あんな読み方をしなければよかったと思うことも。まあそれはしかたないですよね。判断力を磨くしかないのかもね。メタ視に耐えうる物語なのか、そうじゃないのか序盤で判断して、頭をどれくらい鈍らせるべきなのか。まあいろいろ技術はあるけど、脳内にたくさん貼られた細部と経験のリンクもまるごと受け止めるしかないですよね、だいたい。
 なんか言ってることよくわかんねえよ!って思う人もいるかもしれませんが安心してください。ぼくもよくわかりません。……でもとにかく、ぼくたちは少しでも多く物語を楽しみたいのです。おもしろかったと言いたい。つまらないというのも楽しいけど、つまらぬ(つまらないの動詞型)のはあんまりがんばらなくてもできるんですよね。ぼくはいつまでも挑戦者でいたい。何に挑戦すんの? 決まってんだろ! 自分の可能性にだよ!!!!!!!! もっとぼくの中にある物語の性感帯を開発したいんです。だからがんばって楽しもうとするのです。

 まあどんな読み方も間違ってなく、肯定されるべきですよねって話です、たぶん。
 何も言えねえ。
 なんも言えねえ(荒川良々あまちゃん)。

 まあそんなわけで感想を言い合うのもムズカシイわけです。
 感想を共有するのはむずかしい。というか共有なんてできない。作者は死んでいる。ついでにロラン・バルトも死にました。言葉、ああ言葉! その単語一つ一つをとったって人によってはぜんぜん違った意味と響きを持つんだ。
 日々言葉と言葉の断絶を実感するばかりですね。言葉って伝わらない。でも、だからこそ、何か伝わったような、わかったような気がしたときにうれしくなっちゃうんですよね。わかってもらえないってさびしいですからね。
 祈りをこめて投瓶通信するしかないですよね。無数に吐き出された言葉の中で、何か一つでも他人に響けば。それを知ることはできないけど、想像するとちょっとにやけてしまいます。
 そうだ祈ろう。ああ、祈れ。祈れ。踊れ!
 ワッショイワッショイ!!
 これはもうなんとなく、なんですが、ぼくは物語の感想を具体化するのがあまり好きではありません。抽象的であればあるほど、祈りレベルが上がるような気がするのです。そもそも祈りというのは心の所作です。他には何もいらない。最低限でいい。だからぼくは言います。短く、輪郭が伴わない言葉を放ちます。「わかる」「せやろせやろ」「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない」「ディスコ探偵 is GOD」「◯◯おもしろいよ」

 みんな別々のレイヤーを生きてるんだよなあ。交わらない。電流鉄骨渡りなんだ。ときどきそんな当たり前のことをふと思い返してさみしくなります。でもとても楽しくもあります。誰かに会いにいけるのってすてきじゃありません? それが成功するか失敗するかわからないのって、なんだかとってもわくわくしません? どうだろなあ。なんかいろいろとっちゃらかったまま、まとめられなかった気もするけど、いいや。
 これはだいたいTwitter上での話なんですが、まあそんな感じですね。
 そういうことです( ・´ー・`)